とまと船

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承認欲求の起源論

冒頭に、「なるほど」と思った記事を紹介させていただきます。

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ひとは、困難な「栄光の道」をなぜ求めるのか?

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世の中の大体の人は、「認めてもらいたい」という欲求の塊だと思うのです。

ここでは、「承認欲求」と呼んでみましょうか。

何か良いことを成し遂げたら、見て欲しい。仕事の成果を褒めて欲しい。

多くの人から評価されたい。一目置かれる存在でありたい。

俺を見ろ私を見て、の世界だと思います。

 

手っ取り早く評価されるのが「輝かしい肩書き」を得ることでしょうね。

 

やれ、有名大学だ、大企業だ、難関資格だ、司法試験だ、医師国家試験だ、

議員バッジだ(?)、出世だCEOだ、ドラッガー経営学だ、人の上に立つのだ、

なんてことに、日夜勤しんでいるわけです。

 

では、なぜ「承認欲求」を持っているのでしょうか、と自分に問い、こう考えました。

それにはきっと、2つの観点があるのでしょうと。

  • 個人のメリット:承認してくれている人に対し、自分の意見が通りやすくなる。より多くに承認されると、より大きなことを自分の思い通りにしやすい。
  • 集団のメリット:より良い成果を集団で共有できるきっかけとなる。共有した成果を土台にして、さらにレベルの高い成果が生まれやすくなる。集団の生活が向上する。

極端ですが、例えば、最初に「火」を使えるようになった原始人とその集団について、

  • 「火」を使える原始人:「火」の使い方を広めることで、集団のメンバーから尊敬を集め、信頼される(承認)。「火」の使い手として、集団の中でより高い地位を得るチャンスができる(集団を思い通りに操作しやすくなる)。
  • 原始人の集団:「火」が使えることで、食中毒を防げる、着物を乾かしやすくなる、野獣を避けられる(成果の共有による生活の向上)。また、「火」を使った矢や火薬、爆弾などの発明のきっかけとなる(さらにレベルが高い成果への土台)。

というわけで(?)原始時代、荒野で身を寄せ合って暮らしていた人類の祖先にとって、「承認欲求」は個と集団の両方にとってメリットがある生理機能だったのでしょう。

 

「承認欲求」は生理機能である

 

というのが、今思いついた仮説です。抑制や自重をすべき性格の一種というよりは、脳の仕組みだと思うのですよ。

 

現代における「承認欲求」の意義

ところで、現代はどうでしょう?すでに整った交通網や食品製造システム、材料加工や建築の技術があります。お金さえあれば、食うにも住むにも着るにも困らない。逆にお金がなければ、食うにも住むにも着るにも困るわけです。

原始時代のように人口が少なく、集団同士が遠距離に分散していた環境では、あらゆる小集団に「発明家」あり、「火の使い手」あり、「力自慢」あり、「語り部」ありで、彼らは各々の得意分野で承認欲求を満たし合いつつ、すぐそばにある脅威に力を合わせて対抗し、生活環境を向上させていました、と思います。

一方現代は、進化した交通網とインターネットで世界が繋がってしまいました。多少「ひらめき」の素質があっても、人類誕生の昔から天才たちが英知を集めて積み上げていった技術の山に、新しいブロック1つ積むことすら困難になっています。喧嘩がちょっと強いくらいでは、ボクシングの県大会ですら優勝できず、結果それだけでは生活できません。文字を読み書きできたり、パソコンでブラインドタッチ、早打ちができても、それだけで雇ってくれる会社はほぼないでしょう。

原始時代とは打って変わって、「承認欲求」を満たすためのハードルがチョモランマ並みに高くなってしまったのが現代と言えるかもしれません。言い換えれば、原始時代には豊富に存在した、承認欲求を受け入れるための大きな湖。それが現代、枯渇しかかって、ほぼ砂漠化している…ということかもしれませんね。世界中が繋がり、みんなが同じ最高級の成果を共有できるがために。お金さえあれば、ですが。

そして、社会人として世の中に出れば、

 

「グローバル時代の世界相手の大競争のコンペティション

 この先生きのこるためには」

 

「この先生きのこるためには」

 

「この先生、きのこ…」

 

みたいなことが叫ばれ、世界の企業相手に、お客さんから選んでもらえるナンバーワンのサービスを生み出せと無茶ぶりするトップと、それを叶えるべく動く青白い顔をした末端従業員…という構図ができあがるわけでしょうか。まあ少し偏った見方でしょうかね。

とくに、世界と競争するトップ企業に入ろうものなら、給料もいいけど期待はその倍以上に大きくなり、凡人であれば必死で頑張ってようやく並、息が切れてペースが落ちれば期待外れ、と非常に厳しい修業が待っています。

それでも、承認されたいのです。承認欲求は生理機能ですから。

世界の中で、自分より上のレベルがいくらでもいるのは百も承知。それでも、人から認められたい…

トップ企業の凡人も、ブラック企業にいる凡人も、必死で頑張って、並以上の承認を得たいと願う。そして頑張りすぎて、戦線を離脱してしまう。

承認欲求が全く満たされなくなると、どうなるか。そこで、人は「命を失いたい」と考えはじめるのかもしれません。

 

高くなったハードルを横目に、原始時代のままの承認欲求がくすぶる。

 

そうなりやすい時代なのかもしれません。 では、どうすればいいのか?

 

 「承認欲求を分散させる」現代の生き方

 くすぶる「承認欲求」は、ある特定の方向ばかりを向いて満たされない場合が多そうです。特定の企業、特定の資格、特定の異性、そのほか特定のあれやこれや。

一度、視野を広げてみるのがいいかも知れないな、と思いました。例えば、一流トップ企業がハードすぎるならば、地元の通いやすい企業で重宝されることを選ぶ。これは、「逃げ」と思われるかもしれません。

 

そうなんですよ逃げ。逃げです。私が好んでよく使う手です。

 

限界が来た人なら、すでに限界に挑戦したので、あとは楽な方に流れるのを体験するのが良いと思います。あまりトップでない企業であれば、びっくりするほどのスキルが無くても重宝される場合が(トップ企業と比較して)多いと思います。

 

逃げて楽に生きて、余力で新しいことを始めてもいいんじゃないか。

 

そんなふうに思います。その「新しいこと」は、別に人のためでなくていいんです。自分が楽しめることを、自分のやり方で、自分のペースでやっていくってことです。

 

たとえば、私の動画投稿みたいにね(さり気あるアピールを心がける投稿者の鑑)↓

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