とまと船

政治経済、ゲーム、ITなど、興味のあることを自分の視点から書いています。

ニュースに意見を述べることについて

今日は、一つ前の記事「体重晒し」に加え、「もう一件エントリを書こう」という気持ちになりました。乗り気になったんです。それで、ニュースについてなら、何か言えるだろうと思って見渡したんですが、見事なまでに無いんですね。言いたいことが。

言いたいことを考えているうちに、「無いなあ」と思ったんではなくて、

言いたいことを考えていると、

「このニュースは、果たして良いニュースか

 それとも悪いニュースか?」

と、判断しようとしている自分に気づいたんです。

パッと見でよくわからない問題について、無理やり自分のスタンスを決めようとしていたのです。

具体的には、

「これは良いんだ、何故なら~だからだ」

「いやこれは悪い。それは、~だからだ」

みたいに、脳内で根拠の拾い合いみたいな現象が起こっていました。

で、しばらくして

「やめよう。意味がない」

と思ったんです。

ニュートラルなものに対して、無理に賛成、反対を述べてくと、世の中が全部敵味方にバッサリ分かれるような気がするんですね。

でも、実際はそうじゃないと思います。善悪2面の裏表でなく、世界は多面体であり、どっちかというと掴みどころのない「球体」でもあるんじゃないかと。

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ことわざで言えば、

「人生万事塞翁が馬」的なところが、世界にはあるんだろうと。

だから、ある一時点で最悪のように見えても、それが後の吉事につながることもある。まさしく「禍福あざなえる縄のごとし」で、どう転ぶかはだれにもわからない。

そして「正しい」とか「正しくない」とかは、本来は無いんじゃないかと思います。

実際には「好き」か「嫌い」かで人間は動いているように思います。大人の社会というものは、その好き嫌いに後から理屈をつけてみて、あたかも理屈で真っ当に動いていますというフリをしているだけ。

で、大人ぶって理屈で自分や他人を縛ろうとすると、やっぱり心に元気がなくなって、メンタルが弱りウツなどになるんじゃないかなあ。何歳になっても、(反社会的でないかぎり)ワクワクする方へ動いてみた方が面白いし、心が元気になると思うんですね。

私は、「自分が楽しい、ワクワクする方へ動く」ことこそが真の主体性だと思っています。思うようになりました最近。

会社や組織で老人が若い人に「主体的に動け」というのはウソッパチで、「俺が言わないでも自動的に俺の望むように動け」という意味なんですね。「主体的」とは名ばかりの奴隷の挙動を求めているんですよ。無自覚に。無自覚だからこそ救えない。

奴隷の気遣い、大嘘の八の「主体性」でなく、真の主体性を持って動けば、それなりに幸せなんですよ。

 

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